masa98
サトウ
好きな曲と、好きになった曲と、その周り。
出だしのメロディが有名なこの曲。長調でも短調でもなく、直線に進まないようにして、どこか不思議なところへ落ちていく。不思議な女性に妖術をかけられたようで、一度このメロディを聴いてしまうと、モノの聴き方が変わってしまうような気がする。この曲は形をはっきりととらない。形ができそうになるやいなや、その輪郭を溶かしてしまい、また別のものへと変化をしてしまう。共通しているのは、その変化し続ける何かには、光を帯びた線が周りを囲み、何とも綺麗なうっとりとさせるような感覚にさせること。こう書いてみて、印象派って言葉に引っ張られてるや!となるけれど、印象派とも違う。目に入るというよりは、人の思考に近い、というか。
ドビュッシーは30歳になって精力的に活動するようになり、独自のメロディを生み出していった。面白いのは、教会旋法、ロシアの近代音楽、そして、パリ万博で聴いたジャワの民族音楽など、あらゆるジャンルのものにヒントを得たところ。私生活でも、詩人や画家のグループなど、音楽以外のジャンルと深く関わりがあったとされる。いま主流の表現方法だけではなく、他のジャンルと組み合わせていく。この曲も命名できない複雑さがあるのだけれど、全体としては美しいから不思議だ。たとえば、この曲を聴きおわってみると、長調の曲か短調の曲なのかわからない。調の極端な重力に逆らいながら、調と調の狭間をゆったりと移ろいでいるようだ。
1870年代にエジソンが録音技術を発明。20世紀初頭には音の強弱をロール紙に記録するピアノロールが使用され、このアルバムではドビュッシー自身の録音を聴くことができる。まだまだノイズがあること、MaryGardenの歌声が大きいこと、などあって、ドビュッシーのピアノは聞こえづらいものの、流れるような細かい音を聴くと、ピアノの腕前は相当だったように思える。もともとピアニストになることを目指していたようだ。ピアノを前にして前傾になるというよりは、背筋をぴんと伸ばしていそう、と僕は思う。音に自分をのせる、というよりは、できるだけ純粋な音を出す、というような。それにしても、本人が弾いた録音とは、贅沢だ。
2024年に聞いた中で一番のベストアルバムかもしれない。心を鷲掴みにされるって、ぎゅうっ!!ってされるのって、こういう感じなんだなぁ。いや、違うな。ぎゅうっ!!ってされるのだけれど、それは掌いっぱいで掴まれるって感じじゃなくて、いろいろな時間帯から飛び出た透明な掌が、心の側まで近づいてきて、ふうっと息を吹きかける感じ。それで耳の後ろ側がくすぐったくなって、何だろうって振り返るんだけれど、そこには何もいないみたいな。うーん、こういうとありきたりな感じになるな。あの頃とこの頃がメロディになってるというか。寝て起きたら、お母さんが料理を作っていたというか。甘さと辛さと苦さと酸っぱさが一つ、というか。
うーむ、このベースラインはVinceの特徴な気がするなぁ。めちゃくちゃ好き。ベースから2度、2度と上がるのを何度も繰り返す。ベースから7度先に行って戻らないから、ずっと完結しないで、先へ、先へ、と向かっていく感じがする。そこにドラムが、たたたた、と細かく刻んでいくから、自然と体が乗ってきて、トランペットがその間をとーんと抜けるので飽きることがない。意識が引き込まれていくというか、終わらねえかっこよさってあるんだよな。いつまでも演奏できちゃうぜ!みたいな。
スヌーピーのファミコンゲームで流れていた曲。OPだったか、ゲーム内のエピソードの曲だったか。今でも覚えてるってことは、相当気に入っていたらしい。この曲を聴いていると、セロニアス・モンクを思い出してくる。セロニアス・モンクの場合は、こんなにスムーズに音が進まないけれど、なんていうか、ノリが似ているのかな。家ではJAZZをほとんど聴かなかったから、初めて聴いたのはこの曲だったのかもしれない。ちなみに、このファミコンのゲームは相当不気味というか、難易度が高かった。黄色い鳥のウッドストックが笛を吹くと、その方向にスヌーピーが進むのだけれど、その進みが上手く行かないこと!Vince Guaraldiか。
めちゃくちゃめちゃくちゃいい。
イギリスのポップ・ロックの感じが強くて、いい意味で日本らしくない。ただ、向こうの音楽と違って、音数が少ないのかな。圧も少ない気がする。もっと重ねることもできたのだろうけれど、あえて減らしている気がしていて。こういう肩の力がどこか抜けた感じは、大橋トリオの得意とするところだなぁと思う。
【追記】大橋トリオが作ったと思ったら、Michael Kanekoが作詞作曲だった。彼の曲も聴いてみたい。
電車に乗っていた。通勤時間だから、停車するたびに人が出たり入ったりした。満員だった。電車が乗換駅に停車すると、Kindleの電源を切り、鞄にしまってホームに出た。エスカレータへ向かった。ポケットからスマートフォンを取りだし、Spotifyを開いた。TAMTAMのジャケットをタップした。乗換案内の『白金高輪でお乗り換えです』と、Doorsのイントロが重なり、僕の耳に入った。遠く去っていく汽車が、そのまま泡になって消えていくような、幻想的なサウンド。乗換案内の言葉が音楽の一部になったようで、ちょうど現実と音楽の間にいるようだった。アルバムの一曲目、導入の曲としては、素晴らしいじゃないか!と思った。
曲中のリズムはひとつでなくてもいい、むしろ、ふたつとかみっつあって、それが重なったり離れたりしながらメロディは進んでもいい、というのを、僕はこの曲を聴きながら思った。はじめは、どうノればいいのか分からないのだけれど、どうノればいいのか分からない、ということをそのまま受け止め、まずは気に入ったリズムに飛び乗ってしまう。そうすると、他のリズムもなんとなくわかるようになってきて、あちこち行き来できるようになる。そういうのが、気持ちいい。
前まではこの曲を聴いても何とも思わなかったし、原曲がいいなぁと思ってたのだけれど、だいぶ音楽の聴き方も変わってきてるのかもなぁ。
日常の歌って、どうも丁寧というか、ありきたりな歌が多いけれど、星野源の日常は、きちんと見ているぜ!って感じがする。美しいものだけじゃなくて、泥臭さも暗さもあって、その両軸が日常を作っていくのだなぁと。
前曲、『きらり』では『新しい日々は探さずとも常にここに』という材料から『ここは、きらりだ』という発想に至ったのか?と書いたけれど、この曲の場合は、『ここは、燃えるということだ』と、ここ、をまた別の角度から眺めている。ただ、藤井風にとってのあなたというのは、燃えよ、と単に命令をする存在なのか?と思う。すでに既存の曲を見ても分かるけれど、あなたは、私と共にいる存在で、一緒に走ってくれるような、おおらかな存在な気がする。そんな事を考えながら聴いていると、『ええよ』というフレーズが聞こえた。そうか、ええよか、と思った。単に命令するよりは、ええよ、というような存在。語感も合うし、これで曲ができるのか。
『新しい日々は探さずとも常にここに』という発見があって、ただそのままでは歌にならないから、『ここに』というところから、『きらり』という発想が浮かび、それで歌になった気がする。だからこの歌の流れとしては、『常にここに』がBメロにあって、『きらり』がサビにあり、藤井風の発想の流れ自体がメロディになっているように思う。1番から2番、そして最後の大サビにいたるまで、スピード感が変わっていくのも面白い。2番の『ここに』の重ね合わせ、そして、大サビに入る前はいったんベースだけになってスローダウンがあり、それが溜めになって、スネアドラムとともに加速していく。音の広がりが一点に厚くなり、ここになっていく。
1stアルバムの曲「さよならべいべ」と聴き比べると、同じ旅でも曲のニュアンスが違うことに気づく。さよならべいべは、お別れすることにどこか強がりとか、つっぱりがあるけれど、旅路においては、より内面に視点をうつしたお別れ。さよならべいべが卒業式後のお別れ会なら、旅路は、卒業式本番って感じだ。卒業式っていいんだよな。同じ年に入った友達が、同じ壇上にあがって、まじめに隣に並んで、合唱なんかしたりして。お別れするのは、一人じゃなくて、みんなのイベントなんだぜって感じがする。だから、会いたくなったり、応援したくなったりするんだろうね。卒業したら、卒業自体がなくなっちゃっうし、一人でのお別ればっかだからさ。
藤井風の中でテーマになっていた「反発する自分と平穏でいたい自分」が歌詞だけではなく、メロディでも表現されている。Aメロが反発、Bメロが平穏で、その移り変わりが真逆なのに、一つの曲として成り立っているのが面白い。ただ、これは曲だけではなく実際の人間もそうで、一つの性格に突き進むだけではなくて、二つ、いや、それ以上の性格をいったりきたりしているように思う。それで人間として成り立っているのだから、曲も成り立つし、むしろ、これが自然なのではないか?とも思う。サビ「へでもねーよ」は、AメロBメロの反発と平穏が混ざりあった感じ。反発しながらも、あなたのためなら何でもできる、という二重の意味を感じる。
青いダウンジャケットを着ると、藤井風の青春病を聴きたくなった。ヘッドホンの電源を入れ、Spotifyから検索を行い、シングルのジャケットをタップした。NIKEのエアフォースを履こうと思ったけれど、『青春の病に侵され』と聞こえて、革靴に履き替えた。外は17度、降水確率は0%の、雲一つない快晴だった。階段の前で間奏に入ると、なんだかうれしくなって、その場で二三歩、足踏みをした。青桐の葉は黄色く紅葉していた。茶色くなって落ちた葉は、風が吹くと、傍にあった車の上に飛んでいった。老人ホーム前に植えられた桜はところどころ赤くなり、青いニット帽のお爺さんが車椅子から眺めていた。ひとつ、おにぎりを食べていた。
光にはうるさいとか、しずかとか、音の大小はないけれど、朝起きてカーテンの下から漏れ出る光を見ると、どことなく静かだなぁと思ったりする。あとは、東から昇った太陽が木々に当たって木漏れ日を作ったり、カフェに置かれたガラスコップの縁に外の光が反射したり、そういう時も、いいなぁ、静かだなぁと思ったりする。こう考えると、光の量が関係しているのか?と予測が立つものの、それよりも、光がある狭い範囲に入り込み、一部分だけが照らされているっていうほうが静かな感覚がある。たぶん、この入り込むって感覚が重要で、レーザーとかスポットライトで一部分を照らしても、同じような感覚にならない。この曲を聴きながら、光を考える。
『彼は心臓を手に持つと、右心房には白鍵、左心房には黒鍵を取り付ける。そして、正午を少し過ぎたくらいの、やわらかな光が入っているデスクの上に置くと、ゆっくりと目をつぶり、なぜ貴方を思い出すのか?と問いつつ、伸ばした人差し指で鍵盤を押しこむ。きっと、ドとかミではなくて、レとかファ。解決はしないけれど、どこか広がりのある音で』と、僕はこの曲を聴きながら、そんなイメージを妄想する。その後、彼女は部屋に来るのだろうか?それとも既に別れているのだろうか?どちらにせよ、何かに捉えられているっていうのは、ビル・エヴァンスにかかれば美しい。嫌な感じは全然ない。捕らえられたことをそのまま受け取り、それを楽しむ曲。
藤井風の曲はイントロで悲しくても、アウトロでは救いを見つけ、とたんに明るくなった。歌の単位が、救いにいたるまでの過程なんだろう。とすると、曲単位ではなく、アルバム単位でみるとどうなるか。「帰ろう」はアルバムの最後の曲であり、それまでの歌のイメージを含めながら、これも救いへと至る曲だ。つまり、アルバム全部に対する過程であり、ゴールであり、僕は、藤井風のいちばん伝えたかったことって感じもする。でも、何か、無理やり押し付けたりするわけではない。押し付けるというよりは、藤井風自身が、自分自身に、内側のあなたに対して歌っているから、僕はそこに耳を澄ましているだけというか。サビの入りはアルバム全体の白眉。
藤井風の旅立ちっていうのは、制服を着崩して、ギターを抱えたロックで、前を向こうぜって感じ。でも、それは荒々しいって感じじゃなくて、なんていうのかな、卒業式で友達が泣いてたら、思わず笑って「なに泣いてんだよ」って強がる感じ。みんな、やっぱり寂しくて、もうすこし同じ時間を過ごしていたくて、けれど、旅立ちの時間は近づいていて。そうしたら、「さよならべいべ」って誰かが言ったんだよ。なんか、もうこれしかないって気がするね。「ばいばい」でも「またね」でもなくて、かといって「あっはは」でも「どこか!」でもなくて、別れの色んなもの、言葉に出来ないものを詰め込んだら、きっと「さよならべいべ」なんだろうな。
ワンフレーズ目「暮れる」の歌い出しが暗く、青みがかった物寂しい感じがするけれど、そのまま暗くなるのかと思いきや、次のフレーズ「変わる」で、歌がワントーン明るくなる。ここでぎゅっとひっぱられて、そのまま「全部」「乗せて」「風」「流れ」のアクセントを受け取り、流れにのった低いベースの音が、メロディ全体をまた底上げする。その後もアコースティックギターの音やコーラスが重なって曲が盛り上がっていくのは、風が、風下から風上へと吹き上げるような感じだ。温風という感じはしない。湿気も感じない。ちょうど秋から冬になりかかる乾いた風で、首元から服のすき間に入り込む冷たい西風だ。風はどこから吹き、どこへ行くのか。
「私の中には、あなたがいる」というお決まりのテーマと、「あなたに近づきたいのに、私のエゴや怠惰が邪魔をする」という、これまたお決まりのテーマ。死ぬ、というのは比喩で、エゴとか怠惰のことだ!ってわけではない。この場合の死は、私の意識とか身体とか、そういった全て抱えているものを、清水から飛び降りるように投げ出すことだ。しかし、その死は本当に死ぬわけではない。ここが味噌なわけで。私は確かに死んだけれど、そこには何か残るものがあって愛してくれるものがあって、つまり、私の中のあなたに出会って、再び生きかえるってことだ。元の場所に戻る、というか。宗教観が濃く出ている一曲だけど、曲がPOPだから気づかない。
『特にない 望みなどない』という最初の歌詞は、『特にない わたし 満たされている』と最後に覆される。ない、のに、持っている。これは藤井風にとって、一つの大きなテーマだと思う。このアルバムを聴いていて思ったのは、罪の香りも、調子のっちゃっても、最後の最後で覆されるということ。イントロが暗く入っても、アウトロは全部明るい。明るくしている、というよりは、何者かによって明るくされてしまう。最後の救いまでの過程を、見ること、歩くこと、旅すること。それら全てを、藤井風はいつも歌っているのではないか。一曲聴き終わった後には、歌のタイトルが別の意味、救いに変わっていく。言葉の面白さにも、注目して聴きたい。
何か嫌なことがあったり、自分の中が空っぽになって、もう何もでてこないなって時、静かな深夜にこの曲を流す。この曲は僕にとってチューニングをしてくれる存在で、マイナスに傾いていたものが、元の音へと戻って、そこからふつふつとプラスに傾いたり、なんだ、それでいいのかぁ、と吹っ切れたりする。ある意味で常備薬というか、いつでも側に置いておきたい音楽で、ああ、出会えて良かったなぁとしみじみと思ったりする。たまたまタイトルが「SELF PORTRAIT」だけれど、本当にそのとおりで、これを聴いているときは僕は僕を見ているのかもしれない。外側に向きすぎていた視点をいったん内に戻すというかね。自分を見てあげる曲。
裸の王様は、服を着ていないのに、服を着ていると思い込んで恥をかいた。同様に、歌の主人公は、私は裸であるはずなのに、調子にのっちゃって、何かを着ていると思いこんだ。何かをなし得たのは、私が私ではあるのは、私個人が何かをしたおかげだと。でも、「自分のモンなんてない」とこの歌はいう。自分が生きているというよりは、裸で生まれ、何かに生かされているのではないか。本来の自分というのは、いまいろいろと着ているものを脱ぎ、はみ出ったものを隠すことなく、裸であることを認めてこそ出会えるのではないか。あなたであり、あの子であり、自分のうちにいた存在。それは、服を着ていると思うと、なかなか出会えないのかもしれない。
罪の香りがするのは、罪が何かを分かっているから。罪が何かを分かるのは、自分の中に「誰も何も座れないとこ 神聖な場所」があるから。自分の中に正しさの感覚を持っているからこそ、罪が何か分かるんだね。子どもが誰にも怒られなかったら、きっと良い事と悪い事の区別がつかないのと同じで。だから、この歌は一見すると罪の歌っぽく聞こえるけれど、罪を罪だと気づかせる神聖なものへの歌でもある。
歌の主人公は、怠惰と欲望に身を委ねている。けれど同時に、自分の中の正しさに気づいているから、正しさの声がうるさく感じつつも、どうせそこへ帰ることが分かっている。
歌の終盤。主人公は罪を捨て、恥じることのない正しさへと帰る。
子どもの頃は何かに愛されている感覚があった。それは親でも友達でも先生でも、自然だってそうだ。見えている世界は自分の視点の先しかなかったから、そこだけを見て、あとはゆったりと、ぬくぬく保護されていればよかった。なのに、気がついたら子どもじゃなくなって、成人を迎えて大人になって。愛される側ではなく、愛さないといけない立場になった。前をひっぱる人もいないし、答えを教えてくれる人もいない。問題集の後ろには答えがあったのに!そりゃあ、なんでこうなったのか考えるよ。でも、歌詞の言葉遊びではないけれど、本当にキリないんですよね。『未開の地に舵を切れ』大人になれ、ではなく、旅に出よう。藤井風の歌は、旅が多い。
中森明菜のプロローグのアルバムはね、もうどれもいいんだよ。今どきの歌みたいに、激しい心理戦があるわけでも、きゃぴきゃぴしているわけでもなくて、なんていうのかな、伏し目でこっちをまっすぐ見ている感じなんだよね。たとえば、あなたのポートレート。この曲は、前髪がウェーブしてて素敵だったから、ポートレートを撮りましたっていう、本当にそれだけの歌なんだよ。でもさ、それでいいんだよな。複雑なことがなくても、ポートレートを撮ったってことだけで、それだけで歌になるし、そういうのこそが歌だと思うんだよ。あとの感情やらなんやらはさ、説明しなくても、中森明菜の歌い方だけで全部伝わるんだよ。
夜中の寒いときに裸になって湯船に入ると、お湯と気温の温度差の違いで、頭のあたりがぼうっとするような、もやがかかった感じになる。気持ちいいとはまた別で、いままでとは違う場所に来たというか、記憶の前後がうまく繋がらないというか。しばらくそのまま黙ってしまう。この曲はそんなイメージ。いや、これだと格好良くはないか。本当は深夜の首都高とか、男女二人のダンスとか、ネオン街の路地裏とか、そういうイメージのほうがいいんだろうけれど。Weekndの曲って、かっこいい男女じゃないと駄目だと思うんだよなぁ。それは顔がって話ではなくて、男女一人一人が独立しながらも一緒にいる感じっていうか。まだ、僕はお風呂です…
AIに80sのCityPOPを作らせ、プレイリストにまとめたものが話題になった。①人間が作ったのか、AIが作ったのかわからない②著作権問題はどうなるのだろうか③音楽のこれからのあり方は みたいな感じか。僕も聴いてみた。確かに良かった。ラジオから流れてても、絶対に気づかない。それほどまでに80sの感覚というか、メロディやサウンドは完成されていたのだなぁと思う。よし、そしたら80sの曲と聴き比べてみようと思い、「頬に夜の灯」を流した。これがめちゃくちゃいい。最後のコーラスとサックスのところなんか、思わず泣きそうになった。AIと音楽はどうなるのかはまだわからないけれど、まだ僕は吉田美奈子を聴きます。