masa98
サトウ
好きな曲と、好きになった曲と、その周り。
電車に乗っていた。通勤時間だから、停車するたびに人が出たり入ったりした。満員だった。電車が乗換駅に停車すると、Kindleの電源を切り、鞄にしまってホームに出た。エスカレータへ向かった。ポケットからスマートフォンを取りだし、Spotifyを開いた。TAMTAMのジャケットをタップした。乗換案内の『白金高輪でお乗り換えです』と、Doorsのイントロが重なり、僕の耳に入った。遠く去っていく汽車が、そのまま泡になって消えていくような、幻想的なサウンド。乗換案内の言葉が音楽の一部になったようで、ちょうど現実と音楽の間にいるようだった。アルバムの一曲目、導入の曲としては、素晴らしいじゃないか!と思った。
曲中のリズムはひとつでなくてもいい、むしろ、ふたつとかみっつあって、それが重なったり離れたりしながらメロディは進んでもいい、というのを、僕はこの曲を聴きながら思った。はじめは、どうノればいいのか分からないのだけれど、どうノればいいのか分からない、ということをそのまま受け止め、まずは気に入ったリズムに飛び乗ってしまう。そうすると、他のリズムもなんとなくわかるようになってきて、あちこち行き来できるようになる。そういうのが、気持ちいい。
前まではこの曲を聴いても何とも思わなかったし、原曲がいいなぁと思ってたのだけれど、だいぶ音楽の聴き方も変わってきてるのかもなぁ。
日常の歌って、どうも丁寧というか、ありきたりな歌が多いけれど、星野源の日常は、きちんと見ているぜ!って感じがする。美しいものだけじゃなくて、泥臭さも暗さもあって、その両軸が日常を作っていくのだなぁと。
前曲、『きらり』では『新しい日々は探さずとも常にここに』という材料から『ここは、きらりだ』という発想に至ったのか?と書いたけれど、この曲の場合は、『ここは、燃えるということだ』と、ここ、をまた別の角度から眺めている。ただ、藤井風にとってのあなたというのは、燃えよ、と単に命令をする存在なのか?と思う。すでに既存の曲を見ても分かるけれど、あなたは、私と共にいる存在で、一緒に走ってくれるような、おおらかな存在な気がする。そんな事を考えながら聴いていると、『ええよ』というフレーズが聞こえた。そうか、ええよか、と思った。単に命令するよりは、ええよ、というような存在。語感も合うし、これで曲ができるのか。
『新しい日々は探さずとも常にここに』という発見があって、ただそのままでは歌にならないから、『ここに』というところから、『きらり』という発想が浮かび、それで歌になった気がする。だからこの歌の流れとしては、『常にここに』がBメロにあって、『きらり』がサビにあり、藤井風の発想の流れ自体がメロディになっているように思う。1番から2番、そして最後の大サビにいたるまで、スピード感が変わっていくのも面白い。2番の『ここに』の重ね合わせ、そして、大サビに入る前はいったんベースだけになってスローダウンがあり、それが溜めになって、スネアドラムとともに加速していく。音の広がりが一点に厚くなり、ここになっていく。
1stアルバムの曲「さよならべいべ」と聴き比べると、同じ旅でも曲のニュアンスが違うことに気づく。さよならべいべは、お別れすることにどこか強がりとか、つっぱりがあるけれど、旅路においては、より内面に視点をうつしたお別れ。さよならべいべが卒業式後のお別れ会なら、旅路は、卒業式本番って感じだ。卒業式っていいんだよな。同じ年に入った友達が、同じ壇上にあがって、まじめに隣に並んで、合唱なんかしたりして。お別れするのは、一人じゃなくて、みんなのイベントなんだぜって感じがする。だから、会いたくなったり、応援したくなったりするんだろうね。卒業したら、卒業自体がなくなっちゃっうし、一人でのお別ればっかだからさ。
藤井風の中でテーマになっていた「反発する自分と平穏でいたい自分」が歌詞だけではなく、メロディでも表現されている。Aメロが反発、Bメロが平穏で、その移り変わりが真逆なのに、一つの曲として成り立っているのが面白い。ただ、これは曲だけではなく実際の人間もそうで、一つの性格に突き進むだけではなくて、二つ、いや、それ以上の性格をいったりきたりしているように思う。それで人間として成り立っているのだから、曲も成り立つし、むしろ、これが自然なのではないか?とも思う。サビ「へでもねーよ」は、AメロBメロの反発と平穏が混ざりあった感じ。反発しながらも、あなたのためなら何でもできる、という二重の意味を感じる。
青いダウンジャケットを着ると、藤井風の青春病を聴きたくなった。ヘッドホンの電源を入れ、Spotifyから検索を行い、シングルのジャケットをタップした。NIKEのエアフォースを履こうと思ったけれど、『青春の病に侵され』と聞こえて、革靴に履き替えた。外は17度、降水確率は0%の、雲一つない快晴だった。階段の前で間奏に入ると、なんだかうれしくなって、その場で二三歩、足踏みをした。青桐の葉は黄色く紅葉していた。茶色くなって落ちた葉は、風が吹くと、傍にあった車の上に飛んでいった。老人ホーム前に植えられた桜はところどころ赤くなり、青いニット帽のお爺さんが車椅子から眺めていた。ひとつ、おにぎりを食べていた。
光にはうるさいとか、しずかとか、音の大小はないけれど、朝起きてカーテンの下から漏れ出る光を見ると、どことなく静かだなぁと思ったりする。あとは、東から昇った太陽が木々に当たって木漏れ日を作ったり、カフェに置かれたガラスコップの縁に外の光が反射したり、そういう時も、いいなぁ、静かだなぁと思ったりする。こう考えると、光の量が関係しているのか?と予測が立つものの、それよりも、光がある狭い範囲に入り込み、一部分だけが照らされているっていうほうが静かな感覚がある。たぶん、この入り込むって感覚が重要で、レーザーとかスポットライトで一部分を照らしても、同じような感覚にならない。この曲を聴きながら、光を考える。
『彼は心臓を手に持つと、右心房には白鍵、左心房には黒鍵を取り付ける。そして、正午を少し過ぎたくらいの、やわらかな光が入っているデスクの上に置くと、ゆっくりと目をつぶり、なぜ貴方を思い出すのか?と問いつつ、伸ばした人差し指で鍵盤を押しこむ。きっと、ドとかミではなくて、レとかファ。解決はしないけれど、どこか広がりのある音で』と、僕はこの曲を聴きながら、そんなイメージを妄想する。その後、彼女は部屋に来るのだろうか?それとも既に別れているのだろうか?どちらにせよ、何かに捉えられているっていうのは、ビル・エヴァンスにかかれば美しい。嫌な感じは全然ない。捕らえられたことをそのまま受け取り、それを楽しむ曲。
藤井風の曲はイントロで悲しくても、アウトロでは救いを見つけ、とたんに明るくなった。歌の単位が、救いにいたるまでの過程なんだろう。とすると、曲単位ではなく、アルバム単位でみるとどうなるか。「帰ろう」はアルバムの最後の曲であり、それまでの歌のイメージを含めながら、これも救いへと至る曲だ。つまり、アルバム全部に対する過程であり、ゴールであり、僕は、藤井風のいちばん伝えたかったことって感じもする。でも、何か、無理やり押し付けたりするわけではない。押し付けるというよりは、藤井風自身が、自分自身に、内側のあなたに対して歌っているから、僕はそこに耳を澄ましているだけというか。サビの入りはアルバム全体の白眉。
藤井風の旅立ちっていうのは、制服を着崩して、ギターを抱えたロックで、前を向こうぜって感じ。でも、それは荒々しいって感じじゃなくて、なんていうのかな、卒業式で友達が泣いてたら、思わず笑って「なに泣いてんだよ」って強がる感じ。みんな、やっぱり寂しくて、もうすこし同じ時間を過ごしていたくて、けれど、旅立ちの時間は近づいていて。そうしたら、「さよならべいべ」って誰かが言ったんだよ。なんか、もうこれしかないって気がするね。「ばいばい」でも「またね」でもなくて、かといって「あっはは」でも「どこか!」でもなくて、別れの色んなもの、言葉に出来ないものを詰め込んだら、きっと「さよならべいべ」なんだろうな。
ワンフレーズ目「暮れる」の歌い出しが暗く、青みがかった物寂しい感じがするけれど、そのまま暗くなるのかと思いきや、次のフレーズ「変わる」で、歌がワントーン明るくなる。ここでぎゅっとひっぱられて、そのまま「全部」「乗せて」「風」「流れ」のアクセントを受け取り、流れにのった低いベースの音が、メロディ全体をまた底上げする。その後もアコースティックギターの音やコーラスが重なって曲が盛り上がっていくのは、風が、風下から風上へと吹き上げるような感じだ。温風という感じはしない。湿気も感じない。ちょうど秋から冬になりかかる乾いた風で、首元から服のすき間に入り込む冷たい西風だ。風はどこから吹き、どこへ行くのか。
「私の中には、あなたがいる」というお決まりのテーマと、「あなたに近づきたいのに、私のエゴや怠惰が邪魔をする」という、これまたお決まりのテーマ。死ぬ、というのは比喩で、エゴとか怠惰のことだ!ってわけではない。この場合の死は、私の意識とか身体とか、そういった全て抱えているものを、清水から飛び降りるように投げ出すことだ。しかし、その死は本当に死ぬわけではない。ここが味噌なわけで。私は確かに死んだけれど、そこには何か残るものがあって愛してくれるものがあって、つまり、私の中のあなたに出会って、再び生きかえるってことだ。元の場所に戻る、というか。宗教観が濃く出ている一曲だけど、曲がPOPだから気づかない。
『特にない 望みなどない』という最初の歌詞は、『特にない わたし 満たされている』と最後に覆される。ない、のに、持っている。これは藤井風にとって、一つの大きなテーマだと思う。このアルバムを聴いていて思ったのは、罪の香りも、調子のっちゃっても、最後の最後で覆されるということ。イントロが暗く入っても、アウトロは全部明るい。明るくしている、というよりは、何者かによって明るくされてしまう。最後の救いまでの過程を、見ること、歩くこと、旅すること。それら全てを、藤井風はいつも歌っているのではないか。一曲聴き終わった後には、歌のタイトルが別の意味、救いに変わっていく。言葉の面白さにも、注目して聴きたい。
何か嫌なことがあったり、自分の中が空っぽになって、もう何もでてこないなって時、静かな深夜にこの曲を流す。この曲は僕にとってチューニングをしてくれる存在で、マイナスに傾いていたものが、元の音へと戻って、そこからふつふつとプラスに傾いたり、なんだ、それでいいのかぁ、と吹っ切れたりする。ある意味で常備薬というか、いつでも側に置いておきたい音楽で、ああ、出会えて良かったなぁとしみじみと思ったりする。たまたまタイトルが「SELF PORTRAIT」だけれど、本当にそのとおりで、これを聴いているときは僕は僕を見ているのかもしれない。外側に向きすぎていた視点をいったん内に戻すというかね。自分を見てあげる曲。
裸の王様は、服を着ていないのに、服を着ていると思い込んで恥をかいた。同様に、歌の主人公は、私は裸であるはずなのに、調子にのっちゃって、何かを着ていると思いこんだ。何かをなし得たのは、私が私ではあるのは、私個人が何かをしたおかげだと。でも、「自分のモンなんてない」とこの歌はいう。自分が生きているというよりは、裸で生まれ、何かに生かされているのではないか。本来の自分というのは、いまいろいろと着ているものを脱ぎ、はみ出ったものを隠すことなく、裸であることを認めてこそ出会えるのではないか。あなたであり、あの子であり、自分のうちにいた存在。それは、服を着ていると思うと、なかなか出会えないのかもしれない。
罪の香りがするのは、罪が何かを分かっているから。罪が何かを分かるのは、自分の中に「誰も何も座れないとこ 神聖な場所」があるから。自分の中に正しさの感覚を持っているからこそ、罪が何か分かるんだね。子どもが誰にも怒られなかったら、きっと良い事と悪い事の区別がつかないのと同じで。だから、この歌は一見すると罪の歌っぽく聞こえるけれど、罪を罪だと気づかせる神聖なものへの歌でもある。
歌の主人公は、怠惰と欲望に身を委ねている。けれど同時に、自分の中の正しさに気づいているから、正しさの声がうるさく感じつつも、どうせそこへ帰ることが分かっている。
歌の終盤。主人公は罪を捨て、恥じることのない正しさへと帰る。
子どもの頃は何かに愛されている感覚があった。それは親でも友達でも先生でも、自然だってそうだ。見えている世界は自分の視点の先しかなかったから、そこだけを見て、あとはゆったりと、ぬくぬく保護されていればよかった。なのに、気がついたら子どもじゃなくなって、成人を迎えて大人になって。愛される側ではなく、愛さないといけない立場になった。前をひっぱる人もいないし、答えを教えてくれる人もいない。問題集の後ろには答えがあったのに!そりゃあ、なんでこうなったのか考えるよ。でも、歌詞の言葉遊びではないけれど、本当にキリないんですよね。『未開の地に舵を切れ』大人になれ、ではなく、旅に出よう。藤井風の歌は、旅が多い。
中森明菜のプロローグのアルバムはね、もうどれもいいんだよ。今どきの歌みたいに、激しい心理戦があるわけでも、きゃぴきゃぴしているわけでもなくて、なんていうのかな、伏し目でこっちをまっすぐ見ている感じなんだよね。たとえば、あなたのポートレート。この曲は、前髪がウェーブしてて素敵だったから、ポートレートを撮りましたっていう、本当にそれだけの歌なんだよ。でもさ、それでいいんだよな。複雑なことがなくても、ポートレートを撮ったってことだけで、それだけで歌になるし、そういうのこそが歌だと思うんだよ。あとの感情やらなんやらはさ、説明しなくても、中森明菜の歌い方だけで全部伝わるんだよ。
夜中の寒いときに裸になって湯船に入ると、お湯と気温の温度差の違いで、頭のあたりがぼうっとするような、もやがかかった感じになる。気持ちいいとはまた別で、いままでとは違う場所に来たというか、記憶の前後がうまく繋がらないというか。しばらくそのまま黙ってしまう。この曲はそんなイメージ。いや、これだと格好良くはないか。本当は深夜の首都高とか、男女二人のダンスとか、ネオン街の路地裏とか、そういうイメージのほうがいいんだろうけれど。Weekndの曲って、かっこいい男女じゃないと駄目だと思うんだよなぁ。それは顔がって話ではなくて、男女一人一人が独立しながらも一緒にいる感じっていうか。まだ、僕はお風呂です…
AIに80sのCityPOPを作らせ、プレイリストにまとめたものが話題になった。①人間が作ったのか、AIが作ったのかわからない②著作権問題はどうなるのだろうか③音楽のこれからのあり方は みたいな感じか。僕も聴いてみた。確かに良かった。ラジオから流れてても、絶対に気づかない。それほどまでに80sの感覚というか、メロディやサウンドは完成されていたのだなぁと思う。よし、そしたら80sの曲と聴き比べてみようと思い、「頬に夜の灯」を流した。これがめちゃくちゃいい。最後のコーラスとサックスのところなんか、思わず泣きそうになった。AIと音楽はどうなるのかはまだわからないけれど、まだ僕は吉田美奈子を聴きます。
美空ひばりはジャズアルバムを2つ出した。そのどれもが、英語ではなく日本語で歌われている。ある記事を読むと、「歌はメロディとリズムだけでなく、解釈で歌うものだ」と彼女は言ったらしい。日本語とはかけ離れたJAZZを一度、母国語に解体し、彼女の身体に仕立てるようにして再解釈したのだろう。そのため、このアルバムの中は全部ジャズ・スタンダードなんだけれど、日本語で歌うのが当然であるような、自然と身体の内側から歌が溢れだしている感じがする。それと、この赤の背景に、白のオペラグローブとドレスを着ている美空ひばり。マイクスタンドの前で均整のとれた姿勢で立ち、両手を広げて歌っている姿が目に浮かぶよう!美しい!
藤井風にとって、「あなた」は別の人というより、私の中に共にいる感覚が強いように思う。今回でてくる「あなた」は、私の中に存在している優しさの持ち主であり、「優しさに殺られた」とあるように、溢れる優しさゆえ、私から身を潜めている。優しさの持ち主は、私の中に存在はしているが私ではない。私が優しさに受動的に動かされるのではなく、私が優しさに能動的に気づくことではじめて、私と優しさ(あなた)が共にある関係になるのではないか。この歌は、一度私のために身を殺した「あなた」を、ただ抱かれて震えていた私が、ちっぽけで、からっぽで、何もない私が、それでも優しさを呼び覚ましにいく歌だと、僕は思った。
YouTubeで、同世代の女性が仕事をやめ、軽バンに乗って各地をまわる動画を見た。仕事がしたくない、とかではなく、物理的に体調を崩してしまい、あ、私には無理なんだ、と思ったそうだ。また、お父さんはそんな娘に対して、がっかり、と目の前で言ったりして、動画のコメント欄では同情の声が多かった。その後に藤井風の『もうええわ』を流したからか、聴きながらその女性のことを思い出した。周りの目線とかお父さんの言葉とか、そういったしがらみから離れ、もうええわと自由になったのかもしれない。この曲の最後、「アハハ」のあとのキーボードのアウトロは、曲全体の中で一番あかるくて好きだ。動画の女性も、綺麗な笑顔だった。
友達と深夜1時までLINEをした。それから少しパソコンで仕事をして、スマートフォンをひらいた。NHKラジオのアプリをタップした。アーカイブから高橋源一郎の飛ぶ教室を再生した。深夜バスに100回ほど乗った、女性フリーライターの話だった。スマートフォンをスウェットの左ポケットに入れ、デスクから洗面台まで歩いた。給湯器の電源を入れ、蛇口をひねり、水が温かくなったら顔を洗った。「深夜高速バスにのって、イヤホンでこれを聞いたら、僕は泣くと思いますね」と、ラジオから聞こえた。洗濯機の上から新しいタオルを手に取り、顔と首元を拭いた。その瞬間「Night Distance」のピアノイントロが流れた。
自分の気持ちを語るより、その外側を語ることがかっこいいのはあって。この曲なんか、もう何歌っているかよくわかんない。「パンイチ小僧が走り回る地球はエイリアンによって侵略されました」「一方その頃planet treeで僕ら Rabittが地球に落ちてくのを見てた CoreとかNovaとかよく分からんが アダムとイブも首を傾げてた」いや、外側ではないな。これも自分の気持ちなんだよ。簡単に名前をつけないでさ、正確に気持ちを伝えようとすると、パンイチ小僧しかなかったんだろうな。楽しい!とか、不安!とかじゃないからこそ、なんでこの言葉を使ったのだろう?って疑問に思える。疑問を持つから、僕も歌に参加できる。
JPOPで好きな人と言われたら、星野源とかSuchmosが浮かぶけれど、それよりも小袋成彬が好きなんじゃないか?と、会社帰りの電車で思う。スマートフォンとヘッドホンを繋ぎ、spotifyのお気に入りからこの曲を流した。Piercingは2019年のアルバムとは思えないほどに完成されていて、誰も真似しなかったし、誰もあとに続けていない。小袋の声って、粒がくっきりと大きい気がしていて、低音のベースと相性がいいし、高音のコーラスは芯がある。ブラックミュージックというか、R&Bというか、ヒップホップというか、そういういろんなジャンルが混ざり合って、ほんとに、聞いたことのない音楽しか流れてこないんだよ!
MANTRALのアルバムの中で一番好きな曲。「何かを失った僕らは、まだ失ったものを探している」というテーマと、「2+2=5」というテーマの二つ。でもGalileoGalileiはやっぱり前者ではなくて後者が主題かな。どう人が立ち向かっていくとか、どう人が回復していくかとか。普通の言葉では届かない部分をメロディに託している感じ。「2+2=5」の「2」は、私と失ったもの、彼女と失ったものの2かなぁと。その2同士が出会うことによって、失った何かが、分かり会えないと思っていた何かが、互いに似ているゆえに初めて共有される。互いの失ったものはそのままありながらも、そこには共有された何かが1プラスされる。
ピアノのスタッカートと、高音のアコースティックギターのカット。その上に、コスモ感のあるシンセサイザーと、バスドラムだけが、どっどっどっ、と始まる。コーラスがあったり、キュイーンというエレキが入ったり、全体としてポップな感じとは裏腹に、「彼女と別れて自由だけど、眠れないんだよ」って歌。どこかで聞いたなぁと思ったら、作曲は小田和正だった。嬉しいとか悲しいとかではなく、その間をいったりきたりする曲をつくるのは、まさに小田和正だなぁと。最後は音がだんだん小さくなって「暗い暗い暗い闇の中へ」とフェードアウトしていくけれど、このあとも眠れないって感じでいい。ただ真っ暗という感じではなく、青みがかった感じ。