
musicianmmm
haijikurano
はいじくらの くだらなくて綺麗なもので包み込まれたい
「無人島に一曲持って行くなら?」と聞かれたら、きっと私はこの曲を選ぶ。
シンプルな打ち込みから、段々と音が重なっていく構成で、1サビや2サビの盛り上がりは、まさにダンスミュージックのブレイクの様で、盛り上がりつつもどこか発散していくような印象を受ける。その少しのモヤモヤは、大サビによってカタルシスを迎える。先日ライブで聴く機会があったが、DJブースからバンドセットへの転換、ラスサビを聴いた時には様々な感情が渦巻いて空いた口が塞がらず、顎が外れるかと思った。
「いつだって僕らを待ってる まだ見えないままただ待ってる」
この曲の魅力を語るには、300文字では全く足りない。
Chevonの書く春の曲は本当にハズレがない。
「いつまでも救われてはいけない」「弱さこそ、この筆に込めたい」といった歌詞からは、「セメテモノダンス」にも通じる、谷絹自身の「呪い」と「覚悟」が詰まっている。
足りないから、未練があるから、書く、遺す、歌う。
欠けるから、言葉に掛けて、言葉に賭ける。
流行り廃りのスピードがどんどん高速化している、そんな世の中を春の桜に例えたのだろうか。桜は自らの子孫を残すために花を咲かせる。Chevonもそれと同じように、救いを遺すために歌い続けていてほしい。
「巡る季節を忘れるほど 歌に溺れて生きるから
足りない何かを埋めるように 書き続けるから」
ファーストテイクで初めて聴き,その歌詞と力強い歌声に心を打たれた。『イノチミジカシ』もそうだが、なぜ女性の悲哀を歌う曲にこうも惹かれるのだろうか。
サビまでの歌詞は、「わたし」の痛々しい叫びである。その描写の残酷さは、曲が進んでいくにつれ増していき、特に二番の「なんで泣かないの?薄情だと言われた葬式で 本当のわたしを知る人は棺桶の中」という歌詞には衝撃を受けた。そして、サビではタイトルの通りに、「悲しい歌がある理由」を教えてくれる。男である私に、「あなた」の痛みは分からない。だが、性別年齢に関わらずそれぞれの地獄を呑み込み瘡蓋で上塗りをする、その行為を、私は礼讃せずにはいられない。
心地良いパーカッションから曲が始まり、その和気藹々として柔らかく、楽しい雰囲気は楽曲を一気通貫している。クラップが裏拍なこともあり、ライブではライトなファンを困惑させることもしばしばある。
あの選択肢の中だったら迷うことなくスニーカーがいいけどなぁ、という茶々。
「どんな人かなんてすぐ言えやしない君だから 幸せなんだ」「的外れがもし届くなら 君がそうキャッチしてくれたなら」「いいとこ見せるんじゃなくていい顔が見たいだけ それしかないや」
温かみのある語彙ながらも、本質的な歌詞が多いとこの曲に感じる。TOMOOの中でもTOTEMO好きな曲。
ベースのスラップが暴れ回り、ブラスが甲高く鳴り響くそのサウンドは、独特の語彙を用いた歌詞と相まって、まさに「ZTMYらしさ」が満載であるが、「僕が作るものはすでにあるものじゃーーーん」という歌詞からは、自身の立場の確立に悩む、産声を上げた頃の心境と、クリエイターとしての苦悩が伺える。その赤裸々な暴露によって、その才覚だけで登り詰めてきたかのように見えた道程が荊だったことを私たちは知ることとなる。花一匁をして手に入れた「らしさ」などいらない。歌詞を読めば読むほど、ACAねが等身大の人間であることがよくわかる。だからこそ、私達は彼女に惹かれる。ライブ終わりに、必ず地声で愛を伝えてくれる彼女に。
一人の女性の語り口調で紡がれる曲
「札束三枚数えては 独りでつぶやくスキキライスキ」
この歌詞、凄すぎる。
花占いという女児の戯れ。それを札束でするミスマッチさに、大金は貰えるけれどもそれに準ずる社会的能力がついてきていない、水商売の哀愁や悲壮感が表れている。こんな感じの,「くたびれた中に、燃えかすの様に残っている遊び心」に狂おしいほどの魅力を感じる。その感性をこの前友人と共有できて死ぬ程嬉しかった。
事情は書かないが、私にとって本当に特別な曲である。
まさに、「簡単なあらすじなんかにまとまってたまるか」と言いたくなるような。
本の縁語が散りばめられている歌詞は「尾崎節」が満載で心地よい。
何かのインタビューで言っていたが、ほかの似たようなバンドと違うところはそのギターフレーズのキャッチーさにある。イントロでぐっと引き込まれる。
「俯いてるくらいがちょうどいい 地面に咲いてる」
散る散る桜は慌しくて、その儚さと美しさに目が眩む。
けれど散った桜の視線の先には、美しい花が咲いていて、こんな花があったのかと気づく。そのことに、不器用なエールを感じた。時は流れてくれる。
エロくてキモイ妄想をせずにはいられない、居ても立っても、痛くなくてはいられない。そんな童貞の胸騒ぎ、恋情を大の大人が歌にして歌ってくれることがどれだけ嬉しいことか。君のことが腐るほど好きで、あれこれ考えずにはいられないけど、それはきっと実現しなくて、だから君を思うことがすべてであって。夢で逢えるくらいがちょうどいいのだ。
夏や天体の語彙を用いた比喩表現が、少年的で幻想的、ノスタルジックでセンチメンタルな雰囲気を演出している。「君」だけをただ思う切実な気持ちは、激しくもメロディーを崩壊させるまでには至っていないサウンドに絶妙に現れている。
「「君が好き」だという それだけで僕は嬉しいのさ」
いつもはエレキギターから始まることの多い羊文学だが、この曲はアコギから始まる。そのストロークは優しくも力強く、この曲のメッセージ性をイントロだけで掴んでいる。
2サビの終わりからはエレキギターのサウンドが加わり、「声」の悲壮感がより一層増す。しかし、その切実な叫びさえも呑み込んで、「信じてほしい」と私たちに呼びかける。オーバーグラウンドに出るということは、アングラの人々から離れてしまうことになる。しかし、そんな人達を羊文学は見捨てない。
「二度と戻れないあの日々が 私を導いていくから
どんなに長い夜の先にも 必ず明日をつなぐから信じてほしい」
友人と熱海旅行に行った際に、頭の中で頻りにこの曲が流れていた。
サビのコーラスは、その突き抜けるような高音を以って楽曲に推進力と広がりを与える。明るく前向きなサウンドとは対照的に、「多分怖いのは 他の誰かよりも 今の幸せにしがみつく自分」や「答え合わせばっかり悪い癖になって 手探りの日々を持て余した」など、うじうじとした歌詞が目立つ。しかし、そういった過ちや弱さ・迷いも、「青さ」として曲に残すことで、それは「永遠」になる。熱海の青空・海の美しさと素晴らしい仲間、青春時代の青さが、この曲と共にずっと在り続けることを祈っている。
「推しの子」2期ED。個人的には、メフィストに全く引けを取らない楽曲だと思っている。歪んだギターサウンドと力強いドラムから始まるイントロは、誰にも心を開かないアクアの心象を反映しているようである。そのサウンドとは対照的な、塩塚の繊細な、しかし切実な叫びは、まさに舞台で叫び声を上げる役者のようである。河西のコーラスも、その歌声に深みを加え、より壮大なものにしている。曲から情景を連想させるのが本当にうまいとつくづく感じる。
ラブシャで聴いた際には、その音圧に圧倒された。今でもこの曲を聞くと少し胸がドキドキする。
「あと幾つ手にしたら 満たされるんだ? ねえ答えて 涙が ああ涙が」
恥ずかしながら、私と羊文学とのちゃんとした出会いはこの曲である。
四つ打ちのドラムに、幻想的で都会的なギターリフ、ディレイの効いたシンセサイザーは、「儚さ」にフォーカスしているように思われる呪術廻戦のEDの始まりとしてはこれ以上ないほどにマッチしている。絶望に瀕しているが、自分を諦められずない往生際の悪さとその覚悟。
歌詞の内容は極めて内省的で個人的なものに感じられるが、その歌詞が、渋谷を壊滅させた虎杖と重なるのが面白い。その現象は、「きっと同じような痛みを辿ってく夜が君にもあるなら」という歌詞でぴたりと言い表されている。押韻を織り交ぜながらぐんぐん進むCメロも素晴らしい。
サバシスターのドラム・ごうけ(旧GK)の相棒であるぬいぐるみ、「しげちゃん」のことを歌った曲。
サバシスターには珍しい、バラードチックな楽曲であるが、自らの気持ちを、その弱さを含めて等身大で叫ぶというなちのソングライティングの姿勢は変わっていない。
これまでと、そしてこれからの覚悟を表すこのアルバムにこの曲が入るということは、しげちゃんとサバシスターは「共犯者」だ。「汚いやつ」という言葉が褒め言葉になる時まで、「いつまでもそのままで」このバンドとともに歩んでいってほしい。
「しげっちぃ いつか広いあの空へ昇るその日まで
僕らはこの狭い世界で手を取り合って」
勢いあるブラスバンドから始まるイントロは、まさに高校野球のテーマ曲にふさわしい。歌詞にもある様に、「大丈夫」や「頑張れ」という安直なファイトソングではなく、それに苛立ちを覚えるジレンマをきちんと描いている。高校生達の軌跡を、大人が「奇跡」や「美しさ」に安直に当てはめてしまうことへのアンチテーゼが歌詞の節々から感じられる。予め決まっている「宿命」、だからこそ好きに暴れていい、みたいなポジティブな諦めによって、髭男は高校球児の背中を押す。これだよこれ。
「奇跡じゃなくていい 美しくなくていい
生きがいってやつが 光り輝くから」
バイオリンの響きは、ヒーローの背中を押す様な荘厳さを持ち、その動きはなんだかウルトラマンが明滅を繰り返しながら変身するような、そんなイメージが連想される。ライブの照明がスペシウム光線のようでとても美しかったことを憶えている。孤独なヒーロー、しかし彼も弱さを持っている。その弱さを払拭し、奮い立たせる歌詞に、私たちも聴きながら何かせずにはいられない。題材のスケールや曲の壮大感も相まって、「宇宙規模のファイトソング」というフレーズが思い浮かんだ。
「君の手が触れた それが引き合う孤独の力なら
誰がどうして奪えるものか 求め合える命果てるまで」
儚く文学的な歌詞と、それに対置されているようで実は地続きである衝動的なバンドサウンドは、じんやヨルシカを彷彿とさせる。そのせいで、文藝天国の楽曲からは夏を感じずにはいられない。
「拙い音が 核爆発を起こす。辺りに花が散る。」
一点透視図法のように光が超速で収束していくような、そんな疾走感と推進力を持った楽曲。イントロのフレーズは衝撃的で、兎に角カッコよく、曲の至る所に、まるでワープしまくるUFOの如く出現する。自身の世界への没入、オーバードライブによって世界をぶち破り、他の世界との更新に至る、みたいなイメージか。今、サカナクションはこういうアーティストということを知っているから、何とはなしに聴けているが、当時の人達の反応はどんな感じだったのだろうか。
「1000と0と線と点の裏重なる世界」の言葉遊びや、サビの「今煙の中を歩き続けて寂しい夜を抜けて」という歌詞からは、
「さよエモ」や「怪獣」とのシナジーを思わせる。
あえて「糸」や「意図」とせず、カタカナ表記にすることで、歌詞に尾崎節が現れている。段々盛り上がるギターサウンドから鳴る前奏は多幸感に溢れ、ギターリフも耳に残る。「糸」と「恋愛」となれば「運命の赤い糸」がやはり一番最初に思いつくが、操り人形の糸と操る人の意図をかけてきたもんだ。そういったシニカルで少しダークな世界観を保ちつつも、しがらみとなる糸を「運命と呼べるその日まで」と最終的に歌うことで、ささやかなメルヘン要素を曲に加えている。
「いつもまとわりつくその糸を運命と呼べるその日まで」
こちらもどうせ「ふつうの軽音部」に出たのなら書いてしまおう。見た目は「よう嬢ちゃん」って感じのガールズバンドだが、そんなイメージは激しいギターとグングン進むドラムにすぐにぶち壊される。その勢いはメジャーデビューまで破竹の勢いで登り詰めたバンドそのものを表しているようであり、これまでの自分たちの力の証明、そしてこれからの決意表明ともとれる、まさにマイルストーン的楽曲ということができる。
「ナメんじゃねー、音楽が好き」
シングルの方が衝動的で好きだ。「ふつうの軽音部」から入ったが、なぜこんなピッタリな歌を見つけてくることができるのか。文化祭の回は何回も読みたくなる。
キラキラに見えるあの子にも、ブスでどうしようもない弱男にも、それぞれの地獄がある。ロックンロールの轟音は、スタッズのついたベールで地獄を覆い隠してくれる。ベールの中で叫び暴れ回る大義名分を与えてくれる。弱きもののためにロックンロールがあるのなら、銀杏BOYSがあるのなら、それは喜ばしいことである。
「ロックンロールは世界を変えて」
私は銀杏に気付くのが遅すぎた。深さが足りなかった。
カンザキイオリといえば「命に嫌われている。」が思い浮かぶ人が大半だろうが、私はこっちを推したい。そして、私の中ではメガテラ・ゼロの歌ってみたを原典としている。
兎に角歌詞が良い。歌で人を救うことに対して真正面から殴りかかっている。「人のため」という大義名分の元に自分の欲を埋めることに対する後ろめたさを包み隠さず歌う。正真正銘、歌で人を救う事を「無理だ。」と一刀両断する。君が君のやり方で幸せに成ろうとする様に、僕も君の弱さを歌にすることで、生きて往く。
「君は君が勝手に君のやり方で幸せになれる」
少しファンタジックである世界観と言葉選び、その中に確かにある普遍的な叫びに心を揺り動かされる。落ちサビからグッと盛り上がるラスサビへの流れが、王道ながら素晴らしい。歌ってみたをとにかく人数集めて合唱させた動画から入ったものだが、その動画が存外とても良いのだから不思議である。Orangestarの中でも5本の指に入る好きな曲である。
「SEASIDE SOLILOQUIES」とは打って変わって、バンドサウンド色が色濃い曲。哭くエレキギターに心を掴まれる。アクセントの効いたドラムはまるで花火のようで、曲中の激しさに対比されたアウトロのエレキギターが花火が終わった後の喪失感のように思えてなんとも物悲しい。全然歌詞は聞き取れないけれど、日本語版「残灯花火」よりも英語バージョンで聴きたくなるのは、歌詞が邪魔になる程、音色だけで花火の特徴を余すことなく捉えられているからだろうか。
疾走感のあるドラムと底抜けに高い歌声、美しい旋律を奏でるピアノの三要素をして、清涼感がここに極まっている。特に、B(サビ)の高音はボーカロイドだからこそ出せる声であり、人間の声ではここまで気持ちよく歌い上げることはできないだろう。歌詞も、「君」をなんとかして救おうとする、掬おうとする、けれど自らのできることの少なさに、僕は爪先立ちで明日を待ち、願うことしかできない。そんなあどけなさと無力さ、青さが詰まっている。
プロセカの楽曲中では,圧倒的No. 1を誇る同曲。自分がプロセカを始めたての時のバナーイベントがこの曲題材であり、桐谷遥に心を撃ち抜かれたのが全ての始まりであった。こんなことを言ったらプロセカ民にブチ切れられるかもしれないが、この曲が一番歌上手いと思う。正直ワンダショの歌は聴いてられないから。鬱屈しい、しかし美しい人生を謳った歌詞とは裏腹に、バンド色の強いサウンドは底抜けに明るく、希望を与えてくれる。
「歌じゃ人生も何もきっと救えない でも君のために歌いたい 何回、何千回だって奏でど褪せない 夢をもっと歌いたい」ここの高音がとても良い。
私の人生はポケットモンスターとともにあった。だから,この曲の良さを徹底的に噛み潰せることがどうしようもなく嬉しいのだ。
「君の一歩は僕より遠い 間違いなく君の凄いところ
足跡は僕の方が多い 間違いなく僕の凄いところ」
ここの歌詞が本当に良い。人とポケモンの種としての違い、しかしその違いを互いの良さであると認め合っている。相棒としての自信が伺えるところも素晴らしい。
MVも最高であり、何度だって泣ける。ゲームとバンド、それぞれの時代を象徴している存在がドデカいコラボをしているのがアツすぎる。今の子供にも、大人になった時この曲を聴いて感動できるようなポケモンライフを送ってもらいたいと切実に願う。
この前、本当にバスケの練習をしてる子どもがいてなんとも嬉しくなった。爪弾かれた優しいアルペジオの中で、ほのぼのとした日常が歌われる。サビでは、「屋根の色は自分できめる」や、「胸が詰まるほど美しいよぼくらは」のように、日常風景に対置されるように強い決意が歌われているのだが、カネコにとってはそれは地続きのものであるのだろう。日常は奇跡の連続であり、それを能動的に幸福と捉えようとする推進力、その力強さが最後の「美しいから ぼくらは」に込められているように感じる。
静かで、しかし重みを感じるイントロはまるでエンジン音のように感じられる。かといってどでかい盛り上がりがあるのではない。モノローグのような感傷的な語りが、淡々と、美しく続いていく。低音と高音のコントラストが神秘性を感じさせ、哭くエレキギターはなんとも言えない儚さを醸し出す。「modify youth」の牙をいくらか抜いて、ベールを着せたようなイメージ。「渚で会いましょうね」というフレーズが可愛らしい。
2Aに戻ってくる時にギターが復活してくるのが凄く良い
「思い出は遠ざかる 悼むでも痛むでもなく
物語はどこか 不時着するのを願った」
踊らないというタイトルであるものの、イントロのギターリフには体を揺らさざるを得ない
相対性理論を彷彿とさせるような世界観の歌詞に、「あいまいでいいよ」のCメロのような強かさを持った発声が楽曲を貫いている。タメのある、少し癖のある、しかし癖になる歌い方である。
「思い出はめきめき遠ざかり タダで息をするのも憚かる
夜」
ウジウジしてはいるけれど、「きみ」の事は凄く大切に思っているんだろうな
全人類に等しく届いてほしい曲。私に子供が出来たら、こんな曲を車内で流してあげたい。完全なエゴだけど。
優しいギターリフに、こちらに手招き導いてくれるような四つ打ちに加え、壮大なサビは、私達を抱き寄せて背中を押してくれるような、母性を非常に感じる楽曲である。『聴くお母さん』。
歌詞がとにかく良い。
『言葉よどうか いつも側にあり
これからの奇跡に全部 形を与えてください
そうして君は 小さな幸せ宝箱いっぱいに集めて
世界を愛してください』
いつでもここに帰ってこられるような、そしてまた背中を押してもらえるような、優しく有り難い曲。文字数が足りない。ディスクレビューをnote でしたって良い。