気の持ちようという言葉とそれを言ってしまう心の残酷さは、巧妙に変装しているからこそ堆積しやすく、気づいたときには地層になって取り除けないものになっている。でも「なんだかんだ気の持ちようだな」と実感して噛み締めていた時間は自分の人生にも確かにあって、そのきっかけはJUMPマインドの無慈悲なぶつかり稽古や海岸の散歩や音楽などいろいろだけど、確かにあったその確信が自分にまたいつか降りてきてくれるだろうという期待、そしてそれにすがることができるということそれ自体も支えとして捉えがち。恐ろしく脆弱でかつ危険な柱だがこういうタイプのよすがはなんだかんだでもちが良い。